曹均と戯志才が好きすぎる人
 
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【2010.04.29 Thursday 】 author : スポンサードリンク
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つぶやいてなう

冷やしツイッターはじめました。
これまでのあらすじ。



てか吉川が全巻で¥500だた乙
 
  


正史・演義・吉川を揃えてターンエンド、トムの勝ちデース



月曜が関羽の晋太郎先生、水曜が反三国志の精一先生、木曜が名士の渡邉先生、金曜が早大の三国志研、土曜が演義訳の立間先生だった俺は勝ち組last week.



曹沖の象の話の元ネタは仏典だって!



ぼくはいま中国仏教をメインテーマにしていて、ブログには「筰融」「魚豢」とタイトルした記事も載せた。いろいろな本を読んでがんばって書いたのに、金文京先生の『三国志の世界』にすべて書かれていたでござる。



何進の乱の直前、丁原は并州刺史であり、董卓は并州牧であった。両者の関係は?



高僧伝3巻キテル━(゜∀゜)━━!



剳芝の言う「蜀呉四州」の内訳が、ちくま訳の言う通り揚・荊・益・梁州ならば、蜀は呉に見栄を張るために二州支配をアピールしたのかな。



狩野先生は沙摩柯がインド人である可能性を指摘されている。劉表の例のように荊南を支配すれば交州への介入ルートも開発されると思うので、ならば康僧会のような例がいてもおかしくはない。蜀漢は、仏教とふれあうチャンスがいくらでもあったはずなのに。


狩野先生『諸葛孔明』いわく、古来から蜀地方とインド方面の交易があったとのことだが、ならなぜ仏教記録が一切ないんだあの国は…


諸葛玄を豫章太守にしたのは劉表と狩野先生が書いてるけど、袁術やないんですか?


黄忠が廉頗の喩えを出してるとは思わなんだ。


州牧って王が任じられるもんなんですか?


曹彪って呉王だったんすよ
【2010.04.19 Monday 17:57】 author : 古宮五代目
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『雍州府志』
この前大学図書館で、たまたま振り返ったそこに並んでいた。
『雍州府志』。
おぉ、もしや『華陽国志』の長安verみたいな?
と思ってwktkして手に取ったら、「江戸時代の京都を記し―」。

( ・д・)、 ケッ


電子辞書で引いたら、

雍州府志[ヨウシュウフシ]
山城国(京都府)の地理、沿革、寺社、風俗、産物、古跡、陵墓について記した地誌。10巻10冊。儒医黒川道祐撰。天和二(1682)成立。
以下略、ブリタニカ国際大百科事典より。


なんだ、つまんねー。
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【2010.04.05 Monday 14:23】 author : 古宮五代目
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曹操の身体的特徴
てぃーえすのワードパッド「身体的特徴」

てぃーえすのワードパッド「身体的特徴2」


いえいえ、曹操様にもそういう話はちゃんとございますよ。
裴註の『魏書』より。ちくま訳で引きます。


公は笑いながら賊兵に向かって言った。「おまえたちは曹公を見物したいのか。わしもやはり人間の仲間だぞ。四つの目、二つの口があるわけではない。ただ智恵が多いだけじゃ。」


( ゚д゚) ねぇのかよ!
     一本とられたぜっ!


石井仁先生が「後世、浴びせられる批判を直感していたのかもしれない」(『曹操 魏の武帝』エピローグ)とコメントしていたけど、そういう聖人異表をふまえて曹操が言ってたら、かっこいいですね。
【2010.04.04 Sunday 14:01】 author : 古宮五代目
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弩があったから 【劉寵】
後漢の諸王の中では比較的知られていながら、ウィキペディアには立伝されず、やっぱりマイナーなんだね、仕方ないね。
劉寵さんです。
ぼくもこの前『続後漢書』を見るまで知らんかった。

渡邉先生訳を参考に『後漢書』孝明八王列伝より拾い読み。


・陳国は明帝の子劉羨からはじまる。劉寵はその曾孫にあたる。諡を愍王という。

・熹平二年(173)、陳国相の師遷が、前陳国相魏音(本来は立心偏)が劉寵と共に天子の祭祀を勝手に行ったと上奏した。しかし霊帝は勃海王を誅殺したばかりだったので、陳王も罪とするのをためらった。そこで中常侍王甫に取り調べさせたところ、魏音は陳王が奉ったのは黄老君であり、長寿の福を求めただけだと釈明した。結果、魏音を輔導を怠った罪、師遷を誣告の罪で誅すべきと上奏した。劉寵は罪に問われなかった。

・劉寵は弩に秀でており、十発十中、矢は同じ場所に当たった。さらに強弩数千張を所持していた。

・黄巾が蜂起すると、劉寵は都亭に出陣した。国人らは王の射撃を知っていたので敢えて背かなかった。そのため陳国は被害がなく、十余万の人々が身を寄せた。

・献帝のはじめ義兵が決起すると劉寵も兵を率いて陽夏県に駐屯し、自ら輔漢大将軍を称した。

・国相の駱俊の輔政により乱世にあっても国を保った。

・揚州の袁術からの支援要請を断ったために、袁術は刺客を使って劉寵と駱俊を暗殺した。


ただ射術の奥義を修めたために、黄巾を鎮め、反董に名を連ね、袁術でさえまともにぶつかることはできなかった。

建安元年、曹操は袁術配下の陳国相袁嗣を降した。
【2010.04.03 Saturday 13:53】 author : 古宮五代目
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呉王
222年、呉王に封じられた人物がいる。
曹彪だ。
のちに太尉王凌に担がれて司馬氏に叛逆したことで有名。
呉王と言えばもちろん孫権。孫権は221年11月に呉王に封じられたが、222年9〜10月には魏と交戦するにまで至った。
そのために曹丕は、同年3月に王に封じたばかりの曹彪を呉に国替えした。孫権は呉王を剥奪されてしまった。よって222年以降の孫権の呉王は自称だったのだろうか。
224年は曹丕が自ら兵を率いて寿春まで到ったが、結局撤退を余儀なくされた。その年のうちに曹彪は呉から寿春に国替えされた。
【2010.04.02 Friday 10:23】 author : 古宮五代目
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蒼天落話
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このセリフに対して袁紹が「こいつも曹操と同じことを言うのか」と驚くが、でもそんなこと曹操言ってたっけと原作読者は首を捻る。
言ったのは正史に引かれる『魏書』の曹操だ。
「諸君は(劉虞のいる)北方を向きなさい。私は(献帝のおられる)西方を向いておりますからね」(ちくま訳)


涼州編での「目がよっつ口がふたつ」も然り、ときどき蒼天は正史の台詞を利用する。
【2010.04.02 Friday 01:06】 author : 古宮五代目
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〜魚豢を通り〜
武・文・明の魏三帝は民間で流行った神仙思想や不老長寿などの道教的信仰を抑制する政策をとった。そのため共に栄えた仏教にも同様の措置がとられた。
しかし、仏教はすでに新しい宿主を得ていたようです。
魏代に何晏たちによる玄学などの老荘思想が知識層で流行するけど、同時に彼らは仏教にも興味を持った。持ったがそれ自体は咎められなかった。
曹操らが姦邪淫祀を禁止したのは、曹植曰く「姦詭を接つで以て衆を欺き、妖慝を行いて以て人を惑わさんことを恐れて」であり事実、左慈らを「殺さなかったし」、張魯などは五斗米道解体の上で厚遇された。曹操が恐れたのは黄巾党を想定した、政権を脅かすほどの民の煽動である。
そうしてこれ以後、仏教は庶民の神仙的関心から、知識人の学問的仏教へとシフトしていきます。


魏代も変わらず西域との交流があり、やはり首都洛陽は中国仏教の中心地となり、翻訳作業が続けられた。その中でも曹芳の頃に『無量寿経』が訳されたことは浄土教の視点から見逃せない。阿弥陀信仰にてまた触れます。
さて、そのように数々の渡来僧を迎え翻訳が進む中で、ついに朱士行のような者が現れる。
朱士行は潁川の人。
やはり洛陽で仏教を学ぶが、例の支婁迦讖の『道行般若経』の訳が不完全なことに不満を持ち、とうとう260年に自ら西域へと旅立って行った。支婁迦讖から百年も経っているけど、前節で触れたようにやはり漢訳は不完全だった。
朱士行の試みは成功し、やがて彼の弟子が原本を持って帰ってきたという。朱士行はそのまま西域で亡くなった。
朱士行はこれまで受動的だった仏教の享受から初めて、自ら仏典を求めた旅を果たした。三蔵法師なんですね。
また、魏の仏教人物として、曹植も見逃せない。
曹植は『弁道論』という、神仙の類が虚妄であると説く書を書いた。冒頭に載せた曹植のコメントもこれによる。
その巻末に曹植の伝記があるのだが、曰く「植、仏経を読む毎にすなわち流連嗟翫して以為らく」。
仏典を読んでは感嘆して、道を究めたと称えているらしいです。
さらに曹植は中国において初めて梵唄を作ったという。梵唄とは仏典に節をつけて読む、唄うこと。
しかし、曹植についても朱士行についても、正史『三国志』には一切の記述がない。


一方、洛陽に次いで仏教が栄えたのは建業、孫呉の地だった。建業は華北の仏教学者が南下し、また交州からも北上してくる土地なのだ。
支謙、あざなを恭明。大月氏の人だけど、生まれは中華だ。大月系中国人の三世か。
洛陽にて支婁迦讖の孫弟子として大いに学ぶが、動乱を避けて呉の地に逃れた。そこで孫権に歓迎され、博士として東宮の輔導を任された。その影響だろうか、『三国志』の孫登の遺書には「黄老の術を修め、篤く神光を養い」という文がある。
また支謙は胡人にして中華のネイティブという性格を活かして大いに翻訳に励み、およそ孫権が亡くなるまで活躍した。あと韋昭とも交流があったらしい。
その支謙と同時期、今度は北上して来たのが康僧会だ。康僧会は天竺出身だが父の商いのため交趾に移った。十歳で親を亡くしたがよく仏典を学んだ。
と、いうことは彼の仏教は交趾で身に付けたものではないだろうか。また彼が師事したという韓林・皮業・陳慧なる人物はそれぞれ南陽・潁川・会稽の人だ。つまり康僧会の仏教はメイドインチャイナであり、また支謙もやはり洛陽で学んでいる。後漢代の支婁迦讖たちがみな外人僧侶だったのと違い、魏代では中国人仏教が自立を始めたのだと言える、かもしれない。
さて康僧会は布教のため建業を訪ねる。赤烏年間のことであり、支謙と若干重なるも、康僧会の活躍の下地には支謙があったと言っていい。
ある日、康僧会は孫権に招聘され仏道の真偽を問われた。康僧会は答弁をし、その結果康僧会は仏舎利を得てそれを証明することになった。
康僧会は仏法の繁栄のため必死に祈願するが、約束の一週間が過ぎても得られない。孫権は一週間延ばしてやるが、やはり無駄に終わる。孫権は刑に処そうとするが、さらに一週間の猶予を乞われたので許した。
合計三週間、やはり舎利を得られる気配はないかと思われた〆切の日、とうとう舎利が出現したので、孫権は感服し、それのために仏寺を建ててあげた。これは建初寺と名付けられて康僧会の活動拠点となった。
このエピソード、『高僧伝』にも載っているけど、いや孫権がまた孫権らしい。二度も延期を許した上に、最後は素直に感服してる。
曹丕が火浣布なんてあるわけないだろ(笑)って言ってたのとは対称に、孫権は新しいものが大好きだ。王表のこととか。きっと仏教も同じだったんだろう。このエピソード自体は先に東宮輔導支謙がいたハズであることを考えれば明らかな創作なんだけど、孫権らしい一面がほほえましい。
そして康僧会は孫権死後も主に訳経作業で活躍し、孫琳の仏教弾圧など受難もあったものの、『高僧伝』には康僧会が孫晧と問答をした記述がある。まぁこれも創作だろう。
しかし紛れもなく康僧会と支謙らの活躍は東晋代の南朝系仏教ブームの基礎となった。
なのにふたりもまた、正史『三国志』にまったく姿を見せない。孫権と仏教の交流も不明である。


魏、呉、と仏教は発展したが、何故か蜀に関しては一切の仏教記録がないらしい。


ところで、この二人も魏末晋初の仏教関係者として見過ごせないと思うのですがいかがか。
陳寿と魚豢です。
前節の通り魚豢は『魏略』西戎伝に仏教伝来を記録した。それを南宋の裴松之が『三国志』に引いてくれたおかげで今日ぼくらが読める。
魚豢曰く、「浮屠の経典によれば、臨児国の王が浮屠を生んだ。父は屑頭邪、母は莫邪という。浮屠は黄色の衣をまとい、髪は青く、青の柔毛が身体に生え、瞳は銅のように赤い。莫邪は白い象の夢に見て浮屠を妊娠し、左の脇から産んだ。すでに髪はもとどりになっており、地に立つと七歩歩いた。臨児国は天竺の中央にあり、天竺には神人が他にもいた。(中略)浮屠の経典と『老子』はよく似ているが、それは老子が西に出て天竺で胡人を教化したからだ。浮屠もその弟子の列に入れてもらえたのだろう」。
異国の始祖伝説を載せてる点はすごいし、両親のシュッドーダナとマーヤーの名前もよく知ってる。
が、その思想についてはほぼまるで触れていない。唯一、道教に似ると書いているけど、その後にとんでもないことをこの魚はほざく。「老子教胡説」とやらだ。ちくま注は「晋代に道教徒が仏教への対抗にするために老子教胡説を唱えたことによる」と解説する。
しかし前節に登場した、襄楷が桓帝への上疏文ですでに「老子、夷狄な入りて、浮図となる」と似たようなことを書いている。「老子胡化説」とでも言えようか。だいぶ早い時期から老子ルーツ説はあったわけだ。
とはいえ「胡化説」と「教胡説」では印象が違う。教胡説は確かに道教側の捏造っぽい。一方で胡化説ではむしろ、仏教サイドが老子の権威を借りてるように思えないだろうか?
胡化説は伝来初期にすでに成立している訳だし、きっと漢族への説得力を増すための仏教側の細工であろう。それを後に道教側にも利用された。ちくま解説の言うとおり、西晋の王浮が『老子化胡経』を著すと道仏の論争は激化、元王朝の力で廃滅させられるまでずっと、道仏論争を掻き回し続けた。


魚豢がそんな感じに記した一方で、陳寿は「関わりがなかったし出来事もなかった」として『三国志』に西域に関する記述を一切していない。してないからこそわざわざ裴松之が『魏略』から注を引かなあかんかった。
いやそんなこたぁない、すぐ後に五胡代が始まるのになにもなかったはずがない。なにより、さっきから見てるように、朱士行、支謙、康僧会と仏教重要人物をことごとくスルー。安世高も支婁迦讖も韓林も皮業も陳慧もスルー。異常である。
あるいは陳寿が蜀出身であることも関係しているのかも知れない。
あるいは多くの知識層にとっての仏教は記すに足りない存在だったのかも知れない。
なかなか面白いテーマであると思う。
そこで「陳寿 仏教」でググッてみたところ、満田剛先生がかつて講演で触れられたことがあるとわかった。断片的でしかその中身がわからないけど、
・陳寿は仏教嫌い?
・意図的に仏教記述をカットしてるっぽい
・王沈『魏書』韋昭『呉書』には仏教の記述があり、後世の仏典に引用されている
とのこと。
また、「いつか書きたい『三国志』」さんのサイトで、陳寿と西域の関係は、「司馬氏が公孫淵討伐で東方ルート開発したこと、逆に西域運営を仕切っていたのが司馬氏の政敵である宗室系だったこと」にも影響されているのではないか、という岡田英弘氏の説を取り上げていた。
なかなか面白いテーマであると思う。
おいおいその氏の本を読むなり、取り組みたいと思います。

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【2010.03.29 Monday 19:00】 author : 古宮五代目
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筰融から〜
近頃、このブログにも足跡を残してくださる方がいくらかいらっしゃるようで。
始めてから半年くらいはアクセス数0。まーったく完全無欠に0だったんで、やはり見てくださるのは大変嬉しい。
ありがとうございます。
精進してますのでまた来てください。



さて、ぼくらの晋太郎先生がサークルに寄稿したコラムで、こんな指摘をしていた。

「吉川三国志の冒頭、仏僧が劉備を助けたり、劉備の家に仏壇があるなどの描写があるが、後漢末ではまだ仏教は一般に信仰されるほど普及してはいない。誤った認識である」

日本でごく当たり前に信仰されている仏教だから、ついうっかりしてしまいがちだけど、まだ儒教一尊の漢朝では、仏教は伝来したてほやほやの邪教にすぎなかった。
しかし話は変わって仏教史B。授業で浄土教についてやったんすよ。
それによれば、中国浄土教でもっとも重要な僧侶のひとり、曇鸞という男がいる。のちに浄土真宗七高僧となる曇鸞は、「往生論註」を著すなど阿弥陀仏信仰の基礎を築き、魏や梁の国王から尊敬を受けた、と。

魏。
梁。
南北朝?

曇鸞は「魏晋南北朝時代」の人だった。
これがかなり意外だった。意外なくらい、三国志のすぐ近くです。
この時期は五胡十六国とかの大乱世で中国文明が停滞していたイメージがあったし、腐っても儒教がいたし。
にも関わらず仏教は、たった二百年で曇鸞という大物を生み落とすまでに至った。
でも我々三国時代が知ってる仏教って、あの筰融じゃないですか。
一体、この乱世で仏教は何をやらかしたのか。
筰融から曇鸞まで。さらにその間に横たわる五胡十六国時代の流れも確認しつつ、調べた。


まず中国へ仏教が伝来したのは、おおよそ紀元前後というのが定説らしい。意外と早い。前漢が滅ぼうとしていた頃だ。
伝来は主にシルクロードを通って西域から。あるいは東南アジアからの交州ルートもあった。
この伝来時期、中国の史書の中にはかなり古い時期だとするものもある。三皇五帝なんぞはアホとして、始皇帝の焚書によって仏経典が焼かれた、なんてのはうっかり騙されますね。もちろんみんな、仏教にハクを付けようとする工作。
漢代に話を戻して、伝来期に関する記録としては『魏略』と『後漢紀』が有名らしい。
『魏略』西戎伝に曰く、前漢哀帝の元寿元年(前2年)に、博士の景廬が大月氏の使者の伊存から、経典を口伝された。仏教記事としては最古のものであり、一応はこれを仏教初伝とするのが定説のようだ。あくまで公式のものとしてだけど。
一方で『後漢紀』はまた違うことを記す。後漢明帝の「感夢求法説」という。有名らしい。
曰く、初めに帝は夢に、金人の長大にして項に日月光有るを見、以て群臣に問う。ある人曰く、西方に神有り、其の名を仏と曰う、其の形は長大なりと。而して其の道術を問い、中国に遂りて、其の形像を図けり。
この説は『後漢紀』を引き継いだ笵曄も採用しており、他にも『魏書』(北魏の正史の方)、『水経注』『世説新語』、仏教関係では『高僧伝』『理惑論』『老子化胡経』などかなりの有名どこに見られる。
特に『理惑論』は詳しく、明帝が張騫らを大月氏国に派遣して写経させたこと、洛陽城外に仏寺を建てたことなども記されている。
しかし実際には張騫が前漢武帝の人であることなど記述に誤りが多く、また伝説的内容のため「明帝感夢求法説」は否定されている。いずれの史料も『後漢紀』を除けば六朝時代頃に成立したと考えられているので、おそらく西晋頃の創作話だろうとのこと。


ところが、明帝が仏教と関わり深かったことは事実だった。彼の弟の楚王劉英が黄老と浮図(仏陀)を奉っていたことが『後漢書』楚王英伝に書かれている件だ。
楚王は最古の仏教信者であり、しかも兄明帝もその事実を知りつつ公認していた。仲のよい弟が仏教信者たることが、逆に「明帝感夢求法説」を否定する理由になっている。明帝は夢に見る前から仏教を知っていたのだから。
なお楚王英はこの後に江東の丹陽郡に左遷されるが、これが後の筰融の伏線であると鎌田先生はしています。


また注目すべきは楚王が「黄帝と老子、浮図を併せて奉っていた」ことだ。
そもそも宗教伝来では、まずそこの土着の信仰を元にして理解され、結果として混同が起こり、また恣意的で受け手に好都合な解釈のみ受容されるというステップがあると云う。
中国の場合、土着信仰とは道教などの黄老思想だった。
これにより仏陀は黄帝や老子らと混雑され、「現世の利益」をもたらす神と信仰されてしまった。楚王以後もしばらく仏教は黄老とワンセットで登場する。現代でも図書館行って中国仏教コーナー見れば、必ず「道教と仏教」的な本があるくらい、仏道混同は複雑な因縁なのです。
しかし老子との同一視など、いわば正しい教義が伝われなかったってのも至極当然のことだろう。
例えば日本で宗教伝来といえばなんでしょう?
キリスト教。あれはイエズス会が信仰と植民地の拡大を野望に派遣した正式な宣教師だった。たしか。
あるいは仏教の場合、あれは多くの渡来人学者と共に三宝セットでやってきた。さらに遣隋唐使という国家レベルの交流もあった。日本にかなり速く仏教が広まった一因はそこにある。
しかし中国の場合はもっと原始的な、人の営みと交流を通じての伝播だった。伝来ルートをシルクロードと南海貿易と言ったように、初期伝来の担い手はそれらの商人たちだ。教義も本場インドオリジナルじゃなく、西域や南海の人々のアレンジがある。インド的「正しい教義」が伝わるわきゃない。
しかしその伝来形式は一方で、日本が鑑真、東大寺大仏、空也、末法思想、源信、鎌倉仏教など実に多くのステップを経てようやく成した「庶民への浸透」を、開幕一発目で成功させたと言えるのではないだろうか。日本は「国家→貴族→庶民」という流れを必要としたが、中国は「まず庶民」だった。だからこそ儒教ではなく民間信仰のひとつの道教が伝道に大きく関わった。
しかもその民間信仰の情勢も仏教に好都合に働いた。
当時の儒教衰退、というか儒教が民間でどの程度の力を持っていたか知らないけど、義だの利だのの宗教が民草に好かれるとは思えない。よって荒廃する乱世の民間では好き勝手な信仰が興る。太平道と五斗米道に限らず、この時期に妖賊と呼ばれた宗教集団が一挙に出現したのは、荒廃に乗じて民草の支持を得て組織化したからだ。
民間信仰はとっても混雑としていた。例えば曹操が済南相のときに取り締まったとかいう地元の祭祀もそのひとつだろうし、江東孫家の歴史を追ってくとやたら妖賊にぶつかる。
そんな宗教情勢だったからこそ、新参輸入モノの仏教も民間に居場所を得られたのだろう。


さて初期伝来から百年ほど時間を進めた後漢末。
『後漢書』桓帝紀や『東観漢記』などに、桓帝が華蓋を設けて浮図、老子を祠ったという記述がある。先に出た楚王と似てるけど、しかしなんと言っても今度は皇帝である。
しかもこの辺の時期には支婁迦讖や安世高らにより西域から仏典ももたらされ、同時に翻訳作業も始まった。このふたりは特に後漢の重要人物としてどの書物にもほぼ必ず姿を見せる。
安清、あざなを世高は、安息国(ペルシャ一帯)の王子だったが、国を離れて諸国を遍歴して、148年頃洛陽に至り、以後二十年ほど翻訳に従事した。『高僧伝』では霊帝の動乱を避けて江南に至ったという。
そして支婁迦讖は大月氏国の出身で、やはり同じ時期に洛陽に来た。彼は大乗仏典をかなり訳したが、中でも重要なのが『般若経』と『般舟三昧経』だ。特に『般舟三昧経』には阿弥陀信仰が書かれていた。阿弥陀仏は浄土教の基礎中の基礎。そんなものまでこの時期に翻訳が完了していたのだ。
しかし、もちろん翻訳作業は簡単な話じゃない。ましてや新宗教という、それまでにない概念を翻訳するのだから、漢語にはない言葉がどうしてもある。そこで現地の宗教語を借りて強引に訳そうとする。そこでまた道教の登場とあいなった訳で、また一層に混同は進んでしまった。両者の混同は伝来から百年、解消どころか悪化の一途だ。
そして桓帝も、皇帝が信仰と言うとすごいけど、実際は愛好した程度…というかそもそも桓帝は道教好きで有名だから、メインの道教に仏教がオマケでくっついてきちゃった程度でしょう。
襄楷という学者がいる。彼は桓帝への諫言で、浮屠の教えが清虚にして無為を尊び、殺生を禁じ、欲を無くして奢をなくすものと説いている。『後漢書』に彼の上疏文が載っているから、この当時で一応は仏教思想が知られていることがわかる。
しかし桓帝がそうであったように、まだこの時は本当に教義や思想を理解する段階ではなかった。


それを示す例こそ、ご存じ筰融である。歴史的には散々な彼も、仏教的には最古の具体的仏教活動の記録として重要な人物だ。
筰融は陶謙下にいたとき、「浮図祠」を築き、黄金の銅人を造った。人々に仏経を読むことを課した。浴仏(『集解』曰く灌仏会)ごとに盛大な宴会をした。信徒は一万にも及んだ。という。
でも実際の筰融は妖賊にすぎない。陶謙配下の頃から略奪と横領を繰り返し、自分をもてなしてくれた趙立を殺害して大略奪、劉鷂をも裏切って、共に軍を率いる朱晧を殺した。敬虔な仏教徒とはとても思えん。横超慧日先生は言う。「不殺、不盗といふ五戒中の基本さへ守られてゐないのである。故に樓関を作り佛像を安じて界内及び旁郡の人に佛經を読ましめ、受道をしたとは言つても、それは沙門(出家僧)中心の教団でないこと言ふまでもなく、野心を以て人心を収めようとした策略に他ならない。」。
孫ぽこさんが「南の呂布」と評した筰融。江東は多く妖賊が出現した地だし、筰融もそのひとつに過ぎないだろう。
とは言え、仏教が儀礼面ではだいぶ進歩を見せていることが筰融からわかる。そして正体こそ不明だが、漢訳の仏典が筰融の手にも渡っている点。
また筰融が丹陽出身というのも面白い。さっきの楚王劉英が左遷された地も丹陽。また安世高は江南に逃れた。洛陽から遠い、つまり西域から遠く離れた長江対岸でも、仏教は浸透し始めていたということだ。


人と人の交流から知られるようになり、やがて数ある民間信仰のひとつとなって下地を築き、かつ中央の高官らにも認知されていた。
仏典なども輸入されていたが、道教との混同など教義が理解されるには至っていなかった。
それが後漢代の仏教でしょう。


また、ちょっと余談になるけど、この時期は偶然にも龍樹の人生とも重なる。150年に生まれて250年頃に亡くなったそうだから、意外にも曹操と同世代なんだな。
浄土真宗七高僧の第一祖にして、あらゆる宗派から祖師と慕われ、『十住毘婆沙論』で浄土教の基礎を築き上げたインドの大僧侶、龍樹。
中国が仏教に親しみ始めていたちょうどその頃に、インドで浄土教が大成を完了しつつあった。

曇鸞まで、残りおよそ310年のことでした。
【2010.03.26 Friday 08:32】 author : 古宮五代目
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,椶は渡邉義浩先生のファンである
 


△靴し大東文化という他大学の講師なのでなかなか講義を聴くチャンスはない




そこへまさかの二松学舎の非常勤講師2010




て鷯祥0譴涼羚饂鵬別棔◆崚譽▲献△領鮖豊 蔽羚饂法法廚播邉ktkr!!!




(o^o^o≡o^o^o)テンションあがってきた




Δ覆、東アジアの歴史,詫修済みである




(#'゚д゚) どぅっ!あっ!うえぇぇぇぇ!!


【2010.03.19 Friday 21:26】 author : 古宮五代目
| 与太噺 | comments(0) | - | pookmark |
蒼天落話
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どう見ても渡邊先生です、本当にありがとうございました。


それにつけても儒教と文学、何晏と曹植。
を、漫画で扱うとかロックすぎるです。
【2010.03.07 Sunday 15:17】 author : 古宮五代目
| 与太噺 | comments(0) | - | pookmark |